ひでやのぶろぐ

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空白を得るための

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単純に「性に合って」いるんでしょうね。

いまこの言葉をなんとなくググってみたら「その人の性格や好みに合う goo国語辞書」って出てきたけど、そうか、この性格にあってるのかも。

良くも悪くも一人っ子気質。心ゆくまで一人になれる時間が得られるし、走っているときって、必死で、今起きている出来事に立ち向かい続けている時間なので、過去のこと、未来のことを無駄に考えている暇なんかないから、無駄に考え過ぎる症の困った症状に、幾分か好影響を与えられている気がする。

仏教の基本の「いまここ」。過去や未来なんてものはないのだ、あるのは「いま」のみ。「いまここ」にいることに集中の世界。

大槻ケンヂの「過去に囚われそうになったら、フューチャー!!と叫べ!!!」である。(ちょっと違うけど、ちょっとそう)

その必死の時間は仏教でゆうところの、縁の生まれない世界、軋轢も執着も起こらないまさに「無」の世界・・・なんか物言いが大げさになってきたけど、ここにその説明を上手くできる一冊いい本があります。

 

 最初の最初に、スポーツのスの字も身体を動かすことに興味のなかったときに読んでも「走るって、ええことかもなぁ・・・」と思わせてくれた、走り始めてからもまた繰り返し読み続けている一冊です。

さあ、その大げさに「無」と呼んだ境地も、実は師匠(村上春樹)から教わったことでございました。

「ー実際にはまともなことはほとんど何も考えていない。

僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。

ー走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものなのだ。34p35p」

これ仏教じゃないか。

ごしゃごしゃと瑣末なことを考えてはいるんだけれど、後には何も残るものがない。普段抱えてる憤りなんてものは、過ぎ去る雲のひとつで、そんな大したことのように思えてくる、そんなことよりも今目の前にある道をこの足で刻んでいくことの方が今は大事であり、汗を流して、足の痛みに耐えながら、流れる景色に感動したり、目標の距離を走れるようになって喜んだりなんかしているうちに頭を覆っていた雲なんか何処へやらだ。

自分の心持ち一つでは、なんでもないことなのかもしれないなぁ、なんて、走るたびに憤りちゃんにバイバイするのだ。

最初この本読んでたときは、まだスの字も…の頃なので、「この人すげぇなぁ10kmを日課にして走るだなんて、さすが小説家は体力が人よりあるのかも…」と驚きながら読んでいたんだけど、実際自分が始めてみたらば、以外と普通にこなせることであったので、この人は「走る」ということをどれだけ素直に、遜色なく書いてみせたんだろう、それだけでこんなに魅力的な一冊を書けてしまうんだもの…とまた驚く。

仕事や生き方に「走る」ことを重ねて考えられることを教わったのもこの本からだ。

長く続くことの苦しさは、仕事も日常も、長距離走に例えられると思う。

「いだてん」とか観てたら、ほんとうに日本人って駅伝が好きなんだなぁって思うんだけど、きっと無性に「性に合う」んだよな。