オヌヌメ!「人生を狂わす名著50」三宅香帆著(←高知の人!)
あけおめ!新年1発目の写真は、我が家伝来のお雑煮からー。餅は角餅です!絶対!
・・・四国四県で他は丸餅なのに、高知だけがたしか角餅じゃなかったけ?それは確か山内家が理由?静岡の掛川から来た文化が根付いたからって話じゃなかったけか。
正月は、年始用に年末から本屋へ行くたびにちまちまと買い集めていた本を一気読み!
その名も新春読書祭り2018(普通!)。
一日何もせず、雑煮食ってTSUTAYAで星野源をしこたま借り込んだ(wowowドラマ「プラージュ」良かった!)以外は身体を動かさずに、ストーブにあたりながらベッドの上でひたすら読む。
一月二日も飯食ったら金高堂行ってまた買い足す、夜もまた星のお祭り。やっと「逃げ恥」の最終話が借りられたのでやっとみくりとの恋の行方に終止符が打たれます(すんごい今さら感)。
さてさて今回もすっかりやられた良著に出くわしてしまいまして、居ても立っても居られない、これはオヌヌメしなければ勿体ない!と、PCを立ち上げた次第です。
本日のオヌヌメは、三宅香帆さまという高知県生まれ高知学芸出身のまだ20代前半の娘さんが書かれたという「人生を狂わす名著50」です。
年末のとある休日に、夕方から読み始めて、そのまま夜中の12時までに、(晩御飯食べてアサヒを飲みながら、合間にイッテQと星野源のライブツアーBlu-rayのにやにや鑑賞をはさみながら)読み終えてしまいました。(アレ?確か24日だったような・・・)
まえがきの時点で、この娘さんとは一緒に酒が飲めそうだという親近感を抱き、title:01を読み終えたときには、この出会いを神に感謝をしていました。
たまたま金高堂で平積みにされてるコーナーに立ち寄り、高知新聞で「県出身者で京都大学院在住、本屋勤めの傍ら評した文章が話題を呼び書籍化」と取り上げられている紹介記事を眺め、ぺらぺらとページをめくって、そういえば前にもこうしてたことがあったんだけど、そのときはあまりピンとこなくて、話題ものに飛びつくミーハーと思うなかれ!と無意味な意地でそのときは過ぎ去り、でも今度は文章読んでると、お?とくる箇所がいくつもあったので、いけるかもしれない・・・と思ってレジに行ったんだ。
読んでる最中はただただこいつすごいなぁ・・・。なんでまだ若いのにこんなに分かってしまっているんだろう、わたしなんか最近になって掴めてきた微かにだけど、ということが、あんたこんなに文章に書けちゃって、もう、嫉妬っ。やーね、嫉妬って漢字、女偏いっぱいじゃないの!醜い!でもそう思う反面に、高知県出身のというところが嬉しくて、こんな良著を世に送り出した人間が同郷にいた誇りも感じてたり。
焦りと誇りがない交ぜになりながら、けれど興奮の方が勝りながら、知りたい!次の章に何が書いてあるのかすぐに知りたい!と、水を飲むように読んでいました。
概念が次々にひっくり返されていくんです。
その楽しさを、おもしろい文章で伝えてくれる。
出会いの神様に感謝を捧げるきっかけとなった第一章『高慢と偏見 ジェイン・オースティン』で、彼女が綴った文章。
ー「古典」と呼ばれる作品を読むことは、立派な人間になることにつながるわけではない。
違う。逆だ。
古典と呼ばれる作品は、いかに人間が立派でないか、立派になることができないのか、を教えてくれるから古典たり得る。
作家オースティンのまなざしは、登場人物を平等に「恥ずかしい人」として笑う。
ユーモアをもって、愛でオースティンは恥ずかしい人たちのことをまなざす。
これって、案外、できないことだ。
-「人間の失敗を、ユーモアをもって微笑む」ことを忘れる。
-みんな、生きてるだけで、笑えるくらい恥ずかしい存在なのだ。
-素晴らしい小説を読むと、人間の「立派じゃなさ」に気づく。
小説によって養われる知性とか教養というものが人を豊かにするとすれば、きっと、そういった何かを許せる笑い方を身につけるから、なんだろうと思う。
途中まで読んでやめてた作品だったこの小説。イギリスを代表する古典。そうだったのか、そういう内容だったのか・・・と改めて合点がいった。
「古典」に対して持ってた概念がすっかり覆された。
古典って手にする前にある程度の「情報」を入れて読み始めるんだけど、絶対に途中で投げ出すんですよね。その小説の「情報」のせいで、こっちは「だからなんなんだ」と思ってるから全然おもんないの。
でも、彼女のこの素直な文章が、純粋に本に救われてる、愛してるという姿をしていて、だから信頼して、その本へ向かうことができる、新しい感受性を与えてくれてる。
別に教師に文句言うわけじゃないけど、学校で国語を習うときにこういうことをゆってて欲しかった。
すんごい大事なことが隠されてると思うから、読んでなんじゃこら、意味分からんちーんて諦めちゃう、文章を読むことを。
だけれども、最初からこの三宅さんのように、体験から溢れ出た気持ちのこもる言葉が一言二言でもあれば、きっと興味を持って読めてたんじゃないのだろうか。
自分からはほど遠い崇高なことが書かれているのではなく、逆で、とっても身近で、自分にとってほんとうに大切なことが書かれているんだ!って、その気づきさえあれば、あんなに毛嫌いしてなかったのかも・・・
そう。実際、自分でも思う。自分、ほんとうにどうしようもねぇなぁ・・・って絶望に陥ってから、はじめて、手にとれた本ってたくさんある、それこそ大嫌いだった「国語の教科書にあったアレ・・・ゲェー」ってやつが、嘘のように自分の中でみずみずしく蘇る。
そのときはほんとう、やっとわたしもここにきたんだ!ってむしろ感動できた、あぁ、大人になったなぁって…(笑)
それをこの娘さんこの若い歳で迎えちゃってるんだものなぁ、恐るべし。
三宅香帆さまは愛のテーマにも触れる。
三浦綾子の『氷点』を論じるtitle:41にて、❝人間は正しいvs人間は間違える❞の価値観や規範が狂わされますぞ、とこの本のテーマを語ったのち、
「あなたはまだ、許せないものが多いー」
「別にそれでいいんだよ、今はね。でもそのうちあなたも、正しくないこととかきれいじゃないものを、許せるようになるといいね、って。『氷点』はそういう話なの」
「だって……愛ってゆるすこと、でしょう?」
《人生を狂わせるこの一言》
この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの生き方がわかるのだという気もいたします。
すとん、ときたのね。
この言葉が。
もうひとつ、すとんときた章。
title:49 何度も読んだ、夏目漱石の『こころ』を彼女は、大人になってからの再読におすすめ!ってゆう。
私たちはいつでも自分がかわいくて、他人のことなんか考えられなくて、いつでも間違う。だけど間違ったら、間違ったまま、取り返しなんかつかない。それは呪いによって残るしかない。呪いの先はどこにも行かない。私たちに突き刺さるだけだ。
誰かを傷つけてでも押し通してしまう自分のエゴと、それを割り切れない矛盾の葛藤。そしてそこから生まれるどうしようもない、ひんやりとした孤独。
孤独なくせにそのエゴを持ってしまう自分自身に、『こころ』を読むと気づいてしまうのだ。
《人生を狂わせるこの一言》
自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しさを味わわなくてはならないのでしょう
もいっちょいこう!
title:50 ラストを飾る本は最近ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』。
これは昔にわたしも読んでいて、わけのわからない恐ろしくも悲しい切なさ襲われて、読むんじゃなかった・・・って公開した作品。
・・・わたしのいけないところは、その意味をそこから探りだすんじゃなくて、あーやな思いした!って、脳内ゴミ箱にポイして記憶から抹消してしまうところですね、こんな思いを人にさせる、小説家って奴はまったく悪い人間で、確信犯的、ド変態だー!って偏見の檻に閉じこもって、いっさいその他の作品には手をつけなくなるっていう・・・(笑)
でもこの本に出会ってから、また幅広く手を付けるようになりましたから、これもまた買いなおそうと思ったし、村上春樹もようやく理解しえたのは、彼女のおかげですし、むしろ好きなやつだったのかもって、また概念覆されたから。…わぁ、ほんとうに人生狂わされ始めてる(笑)
話し戻しましょう、彼女はこの作品を、今この世界でいちばんの傑作だと思う小説だ!と評しておられます。
この作品を論じる文章は、彼女自身の生きることへ対する感想がしばらく述べられます。
生きることはけっこう面倒だと感じた子供時代、ならば死んだら楽なのではと考えるも、しかし大人は、私の何倍もの時間を「死なずに」過ごしている、なぜ大人は生き続けているのか、そんなことを考えているとき、10歳の彼女はふと「じゃあなんで私は今死んでいないんだろう?」と思った。単純に痛いから、けっこう大変そうだし、なんだけど、じゃあ、痛くなく死ねるよって言われたら、私今死ぬかな?と考えた、「死ねない」なぜなら、だってまだあの読みたかった本読めてない、来月号の「りぼん」も読みたいし、それを読むまではまだ死にたくない。
そしてわたしはふと気がついた。そうか。
大人も、死ねない理由がいっぱいあるから死んでないのか。
そっか、生きるってつまりは死ねない理由が増えることなんだな!
人生を続けるのは、死ねない理由、つまりは大好きなものや愛着を持つものを増やすことであって、だったら生きるって、けっこう楽しいことだよな、と私はいつも思っていた。
……この本を読むまでは。
途中までいい話だったのに、この落とし。
そうなの、この作品、絶望の極み。辛い。
ー『わたしを離さないで』ーーこの本を読んだから。ー大人になった私は思うのだ。「そうはいっても、人間って死ぬんだよなー」と。
ー『私を離さないで』を読むと、生きるってそもそも切ないことだって気がつく。
だって小さい頃から、死ねない理由をかき集めて、増やして、まだ死ねないって思ったものが増えたところで、みんな死ぬんだもの。
死にたくないと叫ぶ誰かに、ぎゅっと寄り添う人がいるだけでそこにあたたかい何かが生まれる。ーその寄り添ってくれる人のことを、カズオ・イシグロは丁寧描いてくれる。
生きることは切ないんだけど、ああその切なさをこの作家さんはわかってくれているんだー
この作品のテーマがほかの作品すべてのテーマをも包んでいるのかもしれない。
そう、確かに、切なくない瞬間なんて、人生どこにもなかった。
話変わるようでいて変わってないんだけども、わたしがなぜ最近星野源にドハマりしているのかというと、この人自身もそういう既存の概念の裏側を除いてそれを表現している人だからと思うからで、さきほど述べたプラージュという作品も、「犯罪者」という社会にとって「悪」そのものとされてる存在について改めて考えさせられるものでした。
この人のそういう出演作や歌の歌詞を読んでいるとハッとさせられることが多いんです。呼吸が楽になることが多い。(すっごい馬鹿やってることにもなっとくがいく。笑いから影響を受けてるところとか)
意味の外へ連れってって
自分だけ見えるものと
大勢でみる世界の
どちらが嘘か選べばいい
君はどちらをゆく
僕は真ん中をゆく (←ひとりぼっちで生きてく覚悟で!!※本人メモ)
(夢の外へ)
【みんなと同じ目線を合わせてこの世界を眺めることも大事かもしれないけど、自分にだけ見えている世界もここにあるのだ。虚構や幻想、そこから外れることとはひとりぼっちになることの意味なのかもしれないけど、僕は真ん中をゆくよ!こんなすごいことをいっときながら、音楽はポップでめっちゃ明るくて踊りも可愛いっ。すんごい好き。】
無駄だ ここは元から楽しい地獄だ
生まれ落ちた時から 出口はないんだ
嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ
嘘で出来た世界が 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ
作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
動けない場所から君を 同じ地獄で待つ
同じ地獄で待つ
(地獄でなぜ悪い)
【星野源のテーマが一貫してる内容だと思うの。くも膜下出血での術後はここからまた生きなければいけないということがほんとうに絶望だった、って。映画「地獄でなぜ悪い」の出演&楽曲作。映画オヌヌメ!映画が好き!という気持ちが大量の血とともに溢れでていて、気持ちがいいくらい明るくなる作品!…画面で行われていることはものすんごいがな。ラストでは泣いた。「カッート!」の瞬間。ああ、分かる人はおられないだろうかっ】
笑顔のようで色々あるなこの世は
綺麗な景色は どこまでほんとか
(フィルム)
この歌詞はちょっとこれまでの話とは関係ないんだけど、大好きな歌。
君の手を握るたびに
わからないまま
胸の窓開けるたびに
わからないまま
笑い合うさま
君の手を握るたびに
わからないまま
胸の窓開けるたびに
わからないまま
わかりあった
君の手がほどけるとき
叶わないまま
胸の窓光る先に
手を振りながら
離れゆく場所で
笑い合うさま
(Friend Ship)
”分かりあえなきゃ”ダメだ!って思ってたけど、別に、"分からないまま"でもいいかもな、と思えた。だって生きることは切ないことなのだから。
さぁ。愛が溢れて気持ち悪くなってきたところでそろそろ切り上げましょう。
仕方ない、好きとは、恋とは、偏愛と同義語であるのだから。
偏るさっ。だがな、偏って何が悪い。
本が大好きだ。この思いが共通していることが三宅嬢の文章から滲み出ていてだから嬉しいんだ。本に助けてもらった記憶。絶望したときは本を読めばいいんです。どうにもならない人生をちゃんと動かしてくれますとゆってくれてる。
人生で大切な選択をする瞬間はいつも孤独で、他人が支えてくれたとしても、結局は自分でしか自分の人生を動かせないのだから。本はほとんど唯一一緒にいてくれる他人なんだと。
孤独が悲しいことじゃなくて、生きるために必要不可欠なものであることを、文学を通して教えてくれた。
きっとこれからは誰かにお薦めするなら、この本しかないと思います。
古典と呼ばれる作品は、いかに人間が立派でないか、立派になることができないのか、を教えてくれるから古典たり得る。
本から世界を率直に受け取ってる、彼女の姿勢をこれからも見習いたい。
・・・芸術に取りつかれてる人間ってやっぱ偏愛者だから、変態ばかりなんだよね。
いやいや、変態でなにがわるい!!
…さ、逃げ恥の最終話みようーと!
…結婚が愛情の搾取って、みくり。ずっと気になって仕方がなかったんだーっ。