末広がりに!
歌の出だしがしょっぱなから「春に散る花の~」ときてたので、瞬間でろくでもねぇだろうなということは予測できました。
春に散る花の~ときて、なんだったけな、枯れた枝葉に実りだすのは秋だからね!って内容だったような。
わたくしが二日にひいた末吉のおみくじのお話です、その歌の内容には素直に納得。確かに、花は散るものですし、そこにすぐさま実りを望んだところでどうにもなるわけではございません、時の流れというものがありまして、それは秋には必ずありますから、それまで待つべきであります。
他すべてのお教えも待て!そして待て!!の一点張り。
ことしは薫的さんに習って、自然に抗わずに生きていこうかなとぼんやり意気込んだしだいです。
焦らずに。
大丈夫、実りの季節は必ずや迎えるはずですものね。
次の日、その名前がべらぼうかっこよくて前々から行ってみたいと思っていた須崎の鳴無(おとなし)神社でひいたリベンジおみくじでは、みごと大吉さんが出まして。
口上の出だしから勢いが良くて「このみくじをひいたものは天を昇る龍がごとき勢いで・・・」と。どのお教えもオールオッケーイ!!どんどんいっちゃえ!何したって君の思うがままさ!!フー☆なノリの、対して教えもない内容に、あんまこっちのはそんなテンションが上がらなくて、すぐ海に落としました。(ここの神社のみくじは水に溶ける紙使用でして、海に流すのが流儀なのです)
ことしの目標は、いうなれば、ジャッジしないこころを身に付ける、ですかね。
絶対こうでなければならない!絶対こうでなければ人に非ず!っていままで自分のなかで勝手にあったルールに流されないこころを身につけたいです。そうすればもっと広く視野がなれそうな気がします。(だからかっこいいけど鳴無さんのいうことは聞けない!わたしは薫的でいく!)
昨日観た「ボヘミアンラプソディ」もいうなればそういうテーマだったのだと思いますし、最近好きな映画の傾向もそんなのが多いかな、気が付けば。
「アンダープレッシャー」のイントロが流れると自然に嬉しくなるし(「アトミックブロンド」は観てる最中は二重スパイものだからストーリーズが絡まりすぎてだからなんだってばよ・・・状態だったのが、最期この曲が流れて終わったときには感動のあまり放心、すべての説明がラストに流れるこの一曲でなされた。)、ラストのライブシーンは一緒にノリたくなるほど、臨場感あふれてて、感動で揺さぶられる!・・・けど映画としてはもう一回観るのか!と言われると、うーん・・・な感想。バンド経験あって、Queenを知る世代の方にとってはもっともっと良い映画なのかな。ってあ、ジャッジしてる!・・・ま、いいのいいの!のんびり行くから!ことしは。
っということで、本日より営業開始です!
でも、明日すぐさま定休日です!フー♪
しわす。
「年末鬱」という自作の造語がありまして。
師走を目前にやること&考えなければならないことが日常的に続くことへの不安感から襲われる12月初旬特有の自身の症状のことですが、だいたい年賀状書きさえ終わりが見えれば、気分も楽になるってもんで、情緒も今やほぼほぼ安定期に。
しかしどうしたわけか、毎日のように狂ったように大泉洋の水曜どうでしょうを見まくっていて、どうやらわたしは、シュール極まりないこの番組が心の衛生にちょうど良いようで、「どうでしょうセラピー」をおのれに施しつつ、この師走を駆け抜けてゆこうと・・・またくだらぬ造語ができてしまったか。
本人たちも「旅自体はつまらない」とゆっての通りで、あとで振り返ってみれば、すごくおもしろかったね!ってのが醍醐味みたいなもんだから、きっとこの毎日もそうなるに決まってる。
いまは時間があれば体力気力回復のひとときに使いたいから、読書も進みます、これはいいですね。
いまは村上春樹のレキシントンの幽霊にハマってて、あぁいいわぁ。
この世の不条理と永遠の孤独と、喪失感による焦燥感に浸ってますます症状は進行し あかーん!!
……いや、でも大丈夫、これがねぇ、いいんですよ。
キリッとキレのいい物語だから、おぉ!って感動して、逆に逆行がなんでもなくなりそうな気分になるから、不思議なものでさ。
さぁ、今日も大宴会がありますぞ!本日も今から開店です!
癒し。
沁みる…。
臨床心理学に興味を持つようになって(きっかけ本 「ラブという薬 」著者 いとうせいこう 星野概念 名著!)河合隼雄 を読み始めてからまたよしもとばなな のもとに帰って来た。
「アムリタ」は河合隼雄先生が生前、カウンセラーに推薦していた小説だったと知って(きっかけ本 「なるほどの対話」名著!!)即刻本屋へ走ったら、もはや古すぎるのか、なかったから、急遽Kindleで。
朝支度をしながら、休憩中に、お客さんが来るのを待つ合間に、読み進めた。
この物語はほんにんがほんとうにしんどかったときに書いたものだそうで、だからなのかな、染み入るのは。読んで言葉に無駄が無いと(勝手に)感じるのは、作者の辛さが直に伝わるからなのかも。そういう物語が、癒しになるというのはなんだか不思議なことで、主人公に起きたひどいことも解決もされずに話は終わるのに、そういうものだよな、というところに、浄化されたりする。
臨床心理学の大家が、人の心と向き合う仕事において物語の力を必要としていたということに、無性にこころ惹かれるものがあった。
そんな人が生前に逢いたかったという村上春樹 の対談本(名名著!!!)に影響されてようやくこの人の書くものが理解できるようになり 笑 、ハナレイベイ (読まな損)像の消失 、品川猿 、色彩をもたない多崎つくると彼の巡礼の年 (30代ならなお読むべし!)、眠り (これもほんにんが疲れきっていたときに自分を癒すべく書いたものだという、大好き!)などと出逢い、孤独と喪失感と焦燥感と寂寥感に向き合う力をくれた、こう言葉に書くとすごいけど、わたしはだいじょうぶです 笑
そういう「どうしようもなさ」にいまはものすごくぐっときて止まない日々 、また趣味の傾向がずいぶんとひとより変わってきた気がするけれど、そのきっと星野概念先生著曰くの「傾聴」という作用が、このふたりの書くものにはあるのではないかと思うの。
人の言葉を、耳を傾けて聴く。
ふたりの書くものは、読み手のこころの声を聴いているかのようなんだな、
日常のなかでうまれるこころの怪我。
いつのまにか誰かを傷つけてしまっていたりとか、人からしたら超絶くだらないに決まってることとかで死ぬほど悩んでいたり、時間は流れるから、取り返しのつかなくなった「どうしようもない」できごとに疲れてきたりだとか、なんかそういうことを丁寧に書いてくれてるから、そうそう!って、話を聞いてもらっているみたいになるのかも。
自分を癒すために書いてきた作家。いましばらくはそんなふたりの小説を読んでいる。
書くことが癒しになる。
確かに、なるんだよな。
そう、こんなささやかなことが、癒しになってる。